昭和44年12月03日 夜の御理解



 親教会の秋の御大祭におかげを頂いて、お説教を行徳先生のお話をひさしぶりに今頂きました。皆、それぞれに感銘を受けたことだろうと思うのですけれども、今日はまあ一つの実証ともいうべきおかげを受けた人達のお礼の手紙とか、その、手紙を読まれてそして順々とお説きになりましたが、本当に行徳先生のところ、鹿児島教会で生き生きとしたごひれいがたっておるなと言う事を思うわけですがね。
 その、いうならば天地の親神様の凄まじいまでのお働き。幾人ものガンの人が助かられたり、白血病ですか、がおかげを受けたり、ただしさああの凄まじいまでのそのような働きがですねそこの、信者の熱心な信心をさせて頂いてそこから信者が受けていくおかげを受けたらその教会は大変なごひれいです。でないと遠くの人が本を見てからおかげを頂いたとか。そんなに信心はないけれどもおかげを受けたとかいうのはね。
 実際は、お説教の材料にはなっても教会の力にはならんです。ですからね、その教会の信者が本当に熱心に打ちこんでおる信者がおかげを受けてまいりましたら、教会のごひれい。ですからそういうね、一つの前提、鹿児島の教会の場合はその、お前のところの家の信者はどうかと家の信者が本当に助からなければ、本当のことにこういうおかげが受けられるのだとあれは、教えておられるようなものですよね。本当はそこの教会に熱心にお参りをさせて頂いて。
 こういう信心させてもろうたらこいうおかげを受けたというその、おかげの、話が、もう本人達の口から聞かれるものでなからなけれね、本当のごひれいには繋がらない。ただそれによって、凄まじいまでの神様の働きとその教会に対する神様の期待といったようなものを感じましたですね。どうぞ一つおかげを頂いてね本当に一心に打ちこんでおるもの自体が頂けれるおかげを頂かなければならないと、打ちこんでおるものはおかげを頂けないというところにちょっとね可笑しいとおもうのですよね。
   どうぞ。